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人形感謝祭祝詞9 結尾部
ようやく結尾部にたどりつきました。
冒頭部と同様に、祝詞の最後の部分はほぼ定型化しています。冒頭部を「……恐み恐みも白さく」で始めたなら、結尾部は「……恐み恐みも白す」でとじる。同様に「……謹み敬ひて白さく」で始めたなら、「……謹み敬ひて白す」で終える。たまに揃っていない祝詞も見受けますが、基本的には最初と最後を同じ文言にします。
それからバランスをとるため、分量の上でも冒頭部と結尾部は対応させた方がよい、ということがあります。典型的な冒頭部「掛けまくも畏き某神社の大前に恐み恐みも白さく」くらいの分量でしたら、結尾部は「恐み恐みも白す」だけにする方がよいでしょう。逆に冒頭部が長いなら、結尾部もある程度の分量が必要だというわけです。もっとも、必ず同じ分量にしなければならないわけではなく、冒頭部に比して結尾部の方が短いことが多いです。
この人形感謝祭祝詞の場合、奉書紙の六つのスペースのうちひとつめを三行にわたって書くと、あらかじめ決めて草稿にとりかかりました。これは分量として長い方に入るでしょう。したがいまして「恐み恐みも白す」だけでは短くて、バランスがとれないということになります。
この「恐み恐みも白す」の「恐み恐みも」と「白す」の間に何らかの語句を挿入するという方法があります。例えば、
恐み恐みも「白さくと」白す
恐み恐みも「称辞竟(を)へ奉らくと」白す
恐み恐みも「御寿(みほぎ)の寿詞(よごと)仕へ奉らくと」白す
などです。一番目は、申し上げることです(と、申し上げます)と、現代語にすると変な感じがしますけれども、こんな表現もあります。つまりは、こんなふうに「白す」という語を強調しているわけです。
二番目の「竟」はオエルと読んでも、「終える」という意味ではありません。意味は「お称え申すことばを、お尽くし申し上げることです」。式祝詞によく出てきますが、意味から考えて、本当にことばを尽くしているのか反省が必要な表現です。
三番目は「お喜び申し上げる『寿詞』をお仕え申し上げることです」。「寿詞」はこの場合、お願い申し上げることば。歳旦祭や新年の各種祈願祭などで、よくつかわれています。人形感謝祭祝詞ではつかえない表現ながら、一例としてあげてみました。
ここであげた三例はみな、実は「恐み恐みも白す」の前に置くこともできます。そうすると、その前の語句とのつながりも問題になりますが、まずこれらの語句を前にずらして、見てみましょう。
……白さくと、恐み恐みも白す
……称辞竟(を)へ奉らくと、恐み恐みも白す
……御寿(みほぎ)の寿詞(よごと)仕へ奉らくと、恐み恐みも白す
また、あまり「恐み恐みも白す」の前が長い場合には、「恐み恐みも」を略す場合もあります。
……白さくと白す
……称辞竟(を)へ奉らくと白す
……御寿(みほぎ)の寿詞(よごと)仕へ奉らくと白す
省略というよりは、「恐み恐みも」に代わるものとして置いた、ともいえるかもしれません。
もう少し、「恐み恐みも白す」の前に、つけくわえるタイプを見てみましょう。例をあげます。
神職(かむづかさ)厳(いか)し桙(ほこ)の中執り持ちて
鵜じもの頸根(うなね)衝(つ)き突きて
鹿(しし)じもの膝折り伏せて
などの語句を「恐み恐みも白す」の前に置くわけです。
これらは語句を挿入するタイプとちがい、複数選んで並べることもできます。例えば、
鵜じもの頸根(うなね)衝(つ)き突きて、鹿(しし)じもの膝折り伏せて、神職(かむづかさ)厳(いか)し桙(ほこ)の中執り持ちて
などとすることもできます。なお、おおまかな意味は、一番目は「神職が(神霊と参拝者との間の)中をとりもって」。二番目と三番目は拝礼について述べたところで、すでに出てきました。そのときには「鹿じもの……」をつかいましたので、結尾部ではつかわないのが無難です。
他にもさまざまな表現がありますが、これくらいにしておきまして、結尾部をつくっていきます。
まず先ほどあげた例から「鹿じもの膝折り伏せて」を除いたものを、以下にあげます。
鵜じもの頸根(うなね)衝(つ)き突きて、神職(かむづかさ)厳(いか)し桙(ほこ)の中執り持ちて
これに「恐み恐みも称辞竟(を)へ奉らくと白す」をつけくわえてみましょう。
鵜じもの頸根(うなね)衝(つ)き突きて、神職(かむづかさ)厳(いか)し桙(ほこ)の中執り持ちて、恐み恐みも称辞竟(を)へ奉らくと白す
冒頭部に比べてちょっと分量が多いかな、という気がしますけれども、これでひとまず完成として、推敲するときに再度、検討することにします。
人形感謝祭祝詞8 おねがいする
きのうに引き続き、お願い申し上げる部分をつくっていくことにします。
奉書紙は七折半、そのうち最初と最後には書かないのでスペースが六つある。六つのうち二つを利用してお願い申し上げる部分をつくると、先に申しました。
この部分の最大のポイントは、願いごとをたくさん並べないことです。現代では祈願を主眼とした祭祀が圧倒的に多いので、どうしても多くしてしまいがちなので注意が必要です。
なお、祈願以外に、祝詞には特に重要なことをご報告申し上げる「奉告」、願いを聞き届けてくださったことに感謝する「報賽」などがありますが、祝詞の最後の方でお願い申し上げる部分を置くことが多く、純粋な「奉告」「報賽」の祝詞はあまり見かけません。
さて、いま想定している、お願い申し上げる部分の分量は全体の三分の一ほど、この分量でどんなことを申していきましょうか。もちろん、大事なことから順番に奏上する方がよいでしょう。
人形感謝祭ですから、人形の魂が荒ぶることなく、よい場所へお導きくださいというのが最重要です。そのように祈る人たちの気持ちをよしとしていただく、というのがそれに次ぐでしょう。
では実際につくっていくことにします。まず、人形の魂が荒ぶることなく、から。人形の魂はほぼそのままで「人形の御魂」、「人形の御魂の」「人形の御魂は」と、あとを受けるのは「の」や「は」でもよいのですが、これに、上へくる語をとりたてて強調し、深い感慨を示す連語の「はも」をつけ「人形の御魂はも」としてみます。
なお、ミタマを「御魂」としたのは、祭祀の対象たるみたまさんを「御霊」とすでに表記しているので、区別をつけるためです。発音はどちらもミタマですし、漢字をつかい分けることについて「漢意(からごころ)」にとらわれていると本居宣長に叱られそうです。してみると、この区別は必要ないかもしれません。
つづけます。荒ぶることなく、は、そのままだと単調なので、調子を整えるべく「猛ぶることなく、荒ぶることなく」としましょう。他には「荒ぶる」と同じ漢字をつかうことが多いのですけれども、「すさぶ」という語がありますので、どちらかを「すさぶることなく」としてもよいでしょう。なお、「猛ぶることなく、荒ぶることなく、すさぶることなく」などと、三つ並べるのはあまり見ません。ふたつずつのまとまりをつくり、計四つ並べるのでしたら、場合によってはありかとも思います。
さて、こうした魂はどこにいくのでしょうか。魂となってどこかへいった、という話はたまに聞きますけれども、私じしんは経験ありませんし、魂はどのようなところへいくのかはわかりません。ですから、この世ではない他界、また、この世であったとしてもよい場所へと人形の魂を導いていただきたいわけなので、その「他界」「よい場所」を、上代の古典を踏まえて申すしかありません。
単純に「よい場所」を意味する古語には、「まほらば」「まほら」「まほらま」などがあります。「まほ」が完全であること、よく整っていることを意味し、「ら」をつけると、そのような「場所」ということになります。ここでは音がやわらかい印象を受ける「まほらま」を採用することとして、「天のまほらま、国のまほらま」としてみます。「天の~、国の~」は祝詞の慣用句です。魂の行方としてのよい場所いっても天上なのか地上なのかは想像するしかないので、この慣用句をつかってみます。
さらにもう少し、よい場所を意味する語句をあげていきましょう。冒頭部ですでに使用した「朝日の直刺す処、夕日の日隠る処」もよい場所でしょう。これは古事記や式祝詞にあると申しました。同様に、ここでは日本書紀の記述を踏まえて「常世の浪の敷波寄する処」としてみます。
海の向こうの常世の波が、しきりに打ち寄せるところ。そのような場所なので、じぶんはここにいたいと仰った神様がいらっしゃいます。なんという神様かはここにあげなくてもよいですよね。なお、もとは「常世の浪の重浪(しきなみ)帰(よ)する国なり」で、奏上のときに読み誤らないよう漢字を一部、変えています。
もうひとつ、よい場所を式祝詞の遷却祟神からあげてみます。「此の地(ところ)よりは、四方を見霽(みはる)かす山川の清き地に遷り出で坐して」。この場所から、周辺を見渡すことのできる山や川の清らかなところに、お移りなさいましてという意味。この人形感謝祭祝詞では、みたまさんによい場所へ導いてくださいとお願い申しますので、後半部分を「導き遷し坐して」に変えます。また「地」を読み誤らないよう「処」にします。読み誤る恐れがないなら、もちろん「地」のままでも構いませんし、「所」の方がまちがいなくトコロと読めるというなら、それでもよいでしょう。同様に、「見霽かす」は「見遥かす」とする方がよいかもしれません。
まだまだ「よい場所」をいう表現はありますけれども、これくらいにして、いまあげたみっつの語句をまとめてみます。
天のまほらま、国のまほらま
常世の浪の敷波寄する処
此の処よりは、四方を見霽かす山川の清き処に導き遷し坐して
このうち、遷却祟神の表現がすでにととのっていますので、他の語句を挿入するようにしてみます。
此の処よりは、天のまほらま、国のまほらま、常世の浪の敷波寄する処、四方を見霽(はる)かす山川の清き処に導き遷し坐して
また、「天のまほらま、国のまほらま」は抽象的なので、つまり天や地のどこかよい場所へお移しください、ということなので、そのままでよいとして、後半部分はこのままではどこに導けばよいのかはっきりせず、みたまさんが困ってしまいます。そこで後半部を、このように改変してみます。
常世の浪の敷波寄する処とも、また四方を見霽(はる)かす山川の清き処とも、導き遷し坐して
「~処とも、また~処とも」という部分が、つけくわえたところです。これでひとまず完成として、よい場所へ導き移していただいたあと、「よい魂にしてください」という意味の語句をつけくわえます。もっとも念押しのようなので(つまり失礼かもしれません)、議論のあるところかもしれません。推敲段階で全文をとおして読んでみて、どうもこれは念を押すようで失礼だと感じられるなら消すこととして、いちおうつくっておきます。
このくだりの直前に「人形の御魂はも、猛ぶることなく、荒ぶることなく」と申しますので、「荒魂」からその逆の状態の魂、つまり「和魂」に、というのが自然でしょう。「一霊四魂」といってここで「荒魂」「和魂」とすでにふたつ出ていますが、残りふたつは何だったでしょうか。
それは、「幸魂」と「奇魂」です。「和魂・幸魂・奇魂と為し給ひて」と、みっつを単純に並べると、さっき「よい場所」を並べたときと同じになってしまいますので、「とも」「また」をつかいまして、
和魂、また幸魂・奇魂とも為し給ひて
とします。他に「和魂とも、幸魂、また奇魂とも……」などとすることもできます。このあたりは人によって異なるでしょうが、要は奏上しやすいよう、音の調子がととのう位置に「とも」「また」を挿入するという考え方でよいと思います。
以上をもって、お願い申し上げることのひとつが、できあがりました。つづいて第二点目、この項の最初に述べたように、そのように祈る人たちの気持ちをよしとしていただき、お守りくださいとお願いする語句をつくっていきます。
みたまさんの前にて参列する人たち、ということで、まず「御前に参列(まゐつらな)む者等(ら)」。参列者の気持ちについては「真心」としましょうか。そしてその真心をよしとしていただき、ということで「諾(うづな)ひ給ひ」。意味の通るように各語句をつなげてみますと、以下のようになります。
御前に参列む物等の真心を諾ひ給ひ
つづけて、参列者をお守りくださいと申し上げます。どのようにお守りくださいと申すのか、その「どのように」の部分で二種類の系統があります。「夜の守・日の守に」という表現。夜も昼もということで、要はいつもお守りくださいというわけです。もうひとつは、「堅磐(かきは)に常磐(ときは)に」で、こちらは永久に、ということです。
この二種類の系統の選択は、その人の考えによると思います。ここでは「堅磐に常磐に」は意味上、ちょっと重いようですので、「夜の守・日の守に」をつかうことにします。つなげてみますと、
御前に参列む物等の真心を諾ひ給ひ、夜の守・日の守に守り給ひ
これで、第二点目のお願い申し上げる内容も完成しました。結尾部へとつなげるため、最後の「守り給ひ」を「守り給へと」に変え、第一点目とあわせて以下に掲げます。
人形の御魂はも、猛ぶることなく、荒(あら)ぶることなく、此の処よりは、天のまほらま、国のまほらま、常世の浪の敷波(しきなみ)寄する処とも、また山川を見遥かす清き明き処とも導き遷し坐して、和魂、また幸魂・奇魂とも為し給ひて、御前に参列(まゐつらな)む者等の真心を諾(うづな)ひ給ひ、夜の守・日の守に守り給へと
これで十分当初の予定通りの内容になりましたが、ちょっとだけ分量が足りないようです。といって、お願い申すことの三点目をつくるほどではありませんので、いまある語句につけくわえることにします。
お願い申し上げる部分の出だしでよくつかわれる表現に、今からのち(あるいは、それとほぼ同じ意味の)、という意味の語句があります。例えば「今ゆ往先(ゆくさき)」「今ゆの後は」「今も往先も」などです。ここでは「今ゆ往先」を採用、このお願い申し上げる部分の初めに置くことにします。ただ、これだけではまだ足りません。
そこで、お願い申し上げる対象であるみたまさんが、やはり生前、人形をかわいがられていただろう、そのおこころのままに、という語句をくわえることにします。こう書くとすぐに思いついたようですが、けっこう時間がかかったところです。どちらかというと、枕詞をつかったり、祝詞の慣用句をくわえたりするのは、すぐに思いつきますが、こうした具体的な内容を考えだして古語にするのは、ゆるくありません。
ともあれ、古語にしていきますと、みたまさんが、は「汝命等(いましみことたち)の」。「汝」には、ミマシ、ナンジなどの読みが他にあり、「汝命」でナガミコトと読むこともあります。「等」は上にあたる方なのですから、タチで動きません。ついで、かわいがりなさったおこころ、は「愛(め)で給ひし御心(みこころ)」。ままに、は「任(まにま)に」。「任」の字は「随」をつかうこともあります。つなげてみますと、
汝命の愛で給ひし御心の任に
この語句は、「今ゆ往先」のさらに前に置くといいでしょう。これでひとまず完成ということで、お願い申し上げる部分を全部、以下に掲げます。
汝命等(いましみことたち)の愛(め)で給ひし御心の任(まにま)に、今ゆ往先(ゆくさき)、人形の御魂はも、猛ぶることなく、荒(あら)ぶることなく、此の処よりは、天のまほらま、国のまほらま、常世の浪の敷波(しきなみ)寄する処とも、また山川を見遥かす清き明き処とも導き遷し坐して、和魂、また幸魂・奇魂とも為し給ひて、御前に参列(まゐつらな)む者等の真心を諾(うづな)ひ給ひ、夜の守・日の守に守り給へと
あすはようやく最後、結尾部をつくります。
人形感謝祭祝詞7 おがむ
前回に引き続き、人形感謝祭祝詞について拝礼のようす、それをお聞き届けくださいとお願い申し上げる部分をつくっていきます。もっとも、このあたりはどの祝詞にも共通する内容が多くなるかと思います。
まず拝礼するのは祭祀の対象に向けてですから、敬語が必要です。「拝(をろが)む」に「奉る」を加えて「拝み奉る」。そのような様子を(「状(さま)を」)、平安にお聞き届けくださり(「平らけく安らけく聞し食して」)、ということで、つなげますと
拝み奉る状を、平らけく安らけく聞し食して
「平らけく……」は現代では最もよく使われる表現です。他に「安く穏(おだひ)に」「御心に平らけく」などいくつかバリエーションがあります。
これで最低限の内容は満たしていますが、もっともっと、分量を増やしたいところです。
そこで、玉串を捧げて拝礼することから、玉串についても申すことにしてみます。これも祭祀の対象に捧げるのですから、「捧げ奉り」。これら一連の語句の前に、お供えについて申していますから、玉串「を」ではなく、玉串「をも」としましょうか。「玉串拝礼」という言い方がありますので、これを「拝み奉る……」の前に置きます。
玉串をも捧げ奉り、拝み奉る状を、平らけく安らけく聞し食して
まだまだふくらませていきます。「拝み奉る」の前に「鹿(しし)じもの膝折り伏せて」を置きます。意味は、鹿のように膝を折り伏せて。座礼にふさわしい語句です。同じような表現には「鵜じもの頸根(うなね)衝(つ)き抜きて」がありまして、これは鵜のように首を低く垂れて、という意味です。
玉串をも捧げ奉り、鹿じもの膝折り伏せて拝み奉る状を、平らけく安らけく聞し食して
拝礼のようすを長くしたので、今度は玉串について語句を補い、より詳しく申すことにします。ここは「鹿じもの……」のような慣用句的な語句よりは、大変ですがじぶんで内容を考えてつくった方がいいだろう、ということで頭を悩ませてみます。
玉串というもの、祈念をこめて捧げます。斎主の他に、ここでは人形感謝祭の参列者が捧げるのですから、感謝の気持ち(古語にすると「謝(ゐや)ぶ」)を込めだろう、ということで「謝び奉る」。それから、尊崇の念があってこそ人形を持ち込んでいるわけですので、そのような語句もくわえるとして、「尊(たふと)み奉る」や「敬(ゐやま)ひ奉る」「崇め奉る」などを候補として考えます。どれでも意は尽くすようなので、ここでは、前の「謝び奉る」と語頭の音をそろえて「敬ひ奉る」を採用します。
謝び奉り敬ひ奉る……玉串をも捧げ奉り、鹿じもの膝折り伏せて拝み奉る状を、平らけく安らけく聞し食して
ここで「……」としたのは、「玉串をも捧げ奉り……」とどのようにつなげるか、悩んでいるためです。「謝び奉り敬ひ奉りて、玉串をも捧げ奉り」と単純につなげるのは、意味はまあとおっていても、何だかこころもとない。「感謝申し、敬い申し上げて玉串を……」というのは、その「尊崇の念」が急に出てきたような印象を受けます。
そこで、そのような崇敬の念のあかしとして玉串を捧げ申す、というふうに持っていくことを考えます。「あかしとして」はそのまま「証と」だと、ちょっと弱いので、式祝詞から「志(しるし)の為と」を借りてくることにしましょう。これは出雲国造神賀詞にある表現です(ただし「志」は「忌」の誤記とする説もあります)。
謝び奉り敬ひ奉る志の為と玉串をも捧げ奉り、鹿じもの膝折り伏せて拝み奉る状を、平らけく安らけく聞し食して
だんだん、ととのってきました。あとは、もう少しこの人形感謝祭の趣旨をはっきりさせるべく、語句を補いたいと思います。とはいえ、すでに「お祭りする」部分で申したところなので、ここではより具体的に、人形の魂を和ませてください(と玉串を捧げ申す)という意味の語句をつけ加えることにします。
人形の魂を、は「人形の御霊を」。和ませてくださいと、で「和ませ給へと」。そのように願って玉串を捧げ申す、ということで、この語句を「乞ひ祈み奉る」で受けることにします。「乞ひ祈み」の部分は他に、「乞ひ願(ね)ぎ」や「願(ね)ぎ」、「乞ひ奉り願ぎ奉る」などが考えられます。この部分のみをまとめると、
人形の御霊を和ませ給へと乞ひ祈み奉り
さらに、みたまさんの注意をよりひいていただくため、みたまさんの前にお並べ申しています、という意味のことばをここにつけ加えましょう。冒頭部で、みたまさんの前を「御前」としてますので、まず「御前に」。置くことについては「据ゑ置き奉る」が自然でしょう。前述の語句にあわせてみますと、
御前に据ゑ置き奉る人形の御霊を和ませ給へと乞ひ祈み奉り
では、これまでにできていた語句と、つなげてみます。
御前に据ゑ置き奉る人形の御霊を和ませ給へと乞ひ祈み奉り……謝び奉り敬ひ奉る志の為と玉串をも捧げ奉り、鹿じもの膝折り伏せて拝み奉る状を、平らけく安らけく聞し食して
あとは「……」の部分を、つまりつなげ方を決めたら、この部分は完成です。このままただつなげることもできますが、「奉り…奉り~奉る」と「奉る」の連続が気になります。「乞ひ祈み奉ると」または「乞ひ祈み奉らくと」などとしますと、ここに意味上の切れ目ができます。でも、まだ切れ方が弱いようです。切れ方が弱いと、やはり「奉る」の連続が強調されてしまいます。他に、意志の助動詞を用いて「乞ひ祈り奉らむと」とする方法もあります。でもまだ不十分なので、もう少し強く切ることを考えましょう(なお、ここで文章をはっきり切る、すなわちマルを打てるかたちにするのは得策ではありません)。
ここは理由、もしくは因果関係を意味する語句を用いることにします。こうした語句は前後の語句を対比する効果がありますので、意味上の切れ目をつくることができます。すでにこの祝詞で使用した「年毎の例と定むるが故に」の「が故に」がそうです。一度この語句をつかっていますから、ここでは「~が為に」としましょう。
以上をもちまして、完成しました。以下に掲げます。
御前に据ゑ置き奉る人形の御霊和ませ給へと乞ひ祈み奉るが為に、謝(ゐや)び奉り敬(ゐやま)ひ奉る志(しるし)の為と玉串をも捧げ奉り、鹿(しし)じもの膝折り伏せて拝み奉る状を平らけく安らけく聞し食して
なお、「~が為に」を採用したのは、その前後の「奉る」の連続が気になったからです。とはいえ、「奉る」は上代の謙譲語の主役、うまくつきあわなければなりません。ついでといっては何ですが、この連続を活かす方法も考えてみたいと思います。
ひとつは、「乞ひ祈み奉り」の「乞ひ」と「祈み」を分けて「乞ひ奉り、祈み奉り」とする方法があります。
……和ませ給へと乞ひ奉り、祈み奉り、謝び奉り、敬ひ奉る志の為と……
こののち玉串を捧げ奉る、というのですから、内容上つなげても問題ないでしょう。でも、ちょっと単調な気がしますし、前後の語句を合わせてみると実際に奏上するときには「祈み奉り」で切った方がよさそうです。上で述べたように、いったん意味上の切れ目をつくる語句を置いた方が勝るかもしれません。
逆に、「乞ひ祈み奉り」に合わせて、その後を「謝び敬ひ奉る」としてみます。
……和ませ給へと乞ひ祈み奉り、謝び敬ひ奉る志の為と……
ただ、この場合もやはり、奏上時に「乞ひ祈み奉り」で切って息を継ぐ方が、すっきりするようです。「~が為に」でその前後を切ったものを、ひとまず完成稿としましたけれども、このように、あえてそうしなくても奏上時に切って読む場所として憶えておく、という方法もあります。
この「拝礼のようす」を構成する語句に限らず、作文者はたいてい奏上者ですから、奏上しやすい、つまり読み誤りの少ない文章をつくっていく、という意識は常に持っておくべきでしょう。
人形感謝祭祝詞6 おそなえする
前回に引き続いて、人形感謝祭祝詞のお供えについて表現する語句をつくっていきます。
まず、お供えについて申すことについて重要なのは、実際にお供えする神饌と祝詞の内容が違っていてはいけないということです。式祝詞では例えば、
青海原の物は鰭の広物・鰭の狭物、奥つ藻菜・辺つ藻菜、山野の物は甘菜・辛菜に至る迄、御酒は甕の上高知り、甕の腹満て並べて……(春日祭)
とあります。「甘菜・辛菜」はまあクリアできるとしまして、これだと「鰭の広物・鰭の狭物」ですから少なくとも二種の魚を、また「奥つ藻菜・辺つ藻菜」ですから二種の海藻をあげなければなりません。どちらか片方として「青海原の物は鰭の狭物、辺つ藻菜」とするのは改悪でしょう。魚にしても海藻にしても、引用文のように、この語句は二種を並べることで初めて効果が出ますので。
現代祝詞では例祭祝詞(祝詞例文集上・神社新報社)のように、
御食御酒を初めて、海川山野の種種の味物を机代に置き足らはし……
と、式祝詞に比べればだいぶ、あっさりとした表現になっています。
でも、こうあっさりしては当初想定していた分量にはとても足りませんので、何とか両者の中間あたりまで詳しく申すべく、ふくらませてみます。
まず、「献奉(たてまつ)る幣帛(みてぐら)は」とおおきく構えて、この部分を始めてみます。「幣帛」はさまざまな意味がありますが、ここではもちろん、お供えのこと。なお、この部分の結びは「献奉り」です。
献奉る幣帛は……献奉り
上記の「……」の部分に、お供えの内容を入れていくわけです。無駄に「献奉る」をくりかえしているようですけれども、祝詞ではよくある、いわば構文といった表現です。似た表現として「辞竟(ことを)へ奉らくは……称辞(たたへごと)竟(を)へ奉らくと白す」などがあります。
実際のお供えは献饌の順に、「御食・御酒を初めて」から入りましょうか。といって、必ずしも全部が全部、献饌の順番どおりに申さねばならないわけではありません。なお、「御食」はここでは狭い意味で、お米のことです(神饌全体、お食事という意味で「御食」ということもあります)。
ついで餅をあげます。重ねの、いわゆる鏡餅タイプとして「鏡如(な)す餅(もちひ)」としましょう。「如す」は「~のように」。「鏡の如(ごと)き餅」と申しても同じです。
つぎは魚にしましょうか。「鰭の広物・鰭の狭物」はつかえませんので、「新鮮なものとして魚を」として古語にすると、「鮮(あざらけ)き物と魚(うお)」となります。もっとも、新鮮な物を選ぶのは神饌をととのえる大前提ですから、魚だけ新鮮うんぬんと申すのは議論のあるところかもしれません。
野菜は「甘菜・辛菜」でよいでしょう。式祝詞の表現を借りて「山野の物と甘菜・辛菜」とします。厳密には対句になりませんが、直前の「鮮けき物と魚」を踏まえて、「と」をつかって並列させてみます。
ついで果物。もっとも自然な古語はコノミ、「木(こ)の実」と表記するか、「果」と書いてコノミと読むことにするか。「木の実」の方がよいかもしれません。魚、野菜をせっかく「Aな物と魚」、「Bな物と甘菜・辛菜」としましたので、「Cな物と木の実」とつづけたいところです。この「C」はいろいろ考えられますが、ここでは「香(かぐは)しき」としてみましょう。
おおむね出そろいましたので、まとめてみます。御食・御酒に始まって、果物に至るまで献奉る、ということで、
献奉(たてまつ)る幣帛(みてぐら)は、御食・御酒を初めて、鏡如(な)す餅(もちひ)、鮮(あざら)けき物と魚(うお)、山野の物と甘菜・辛菜、香(かぐは)しき物と木(こ)の実に至るまで献奉り
塩や水について申すこともできますけれども、ここまでで想定していた分量に達しましたので、いちおうお供えの部分、完成とします。一折すべてをこしらえて、推敲する段階で塩・水を申すかどうか決めても遅くありません。
あすは、拝礼をしてお聞き届けくださいとお願いする部分をつくっていくことにします。
人形感謝祭祝詞5 おまつりする(3)
今日は前回に引き続き、人形感謝祭についてお祭りするようすを、核心にあたる部分をつくっていきます。
人形を祖霊殿前に安置、祓うなどの所作をここで申すこととして、単純なかたちでは「祓の神事仕へ奉り」「祓の神業治め奉らむとするが故に」などの表現があると、すでに述べたところです。
まず人形。どんな人形かというと、あちこちから、お祓いしてお焚き上げしてくださいと持ち込まれたもので、中には氏子区域外の人もいます。そうした人形を祖霊殿前にたくさん並べます。
人形を持ち込む人は「御氏子・崇敬者等」、そういう人たちが、あちこち「遠近(をちこち)」より、どうするのかというと、持って来る。持って来るは敬語を用い、「持ち参(まゐ)来たる」としましょう。
御氏子・崇敬者等の遠近(をちこち)より持ち参(まゐ)来たる人形をば、
なお、「御氏子」はミウヂコ、崇敬者はスウケイシャとそのまま読む人もいますが、私はできるだけ訓読みで読みたいのでマメビトとします。「等」はじぶんより上ならタチ、同格から下ならラまたはドモ。ここではラと読むことにしましょう。「人形」はそのままニンギョウとした方が、参拝者には分かりやすいかもしれませんけれども、ここではヒトガタと訓読みしてみます。
そのような人形を、今、みたまさんの前にたくさん置いて並べる。たくさんは「ここだく」、ほぼ同じ意味を持つ古語には、「さはに」「あまた」があります。
置いて並べるは「据ゑ並め」、これもただ並べるのではなく、みたまさんのために並べましょうという意味を込めるなら、敬語が必要です。この場合は「奉る」を加えて「据ゑ並め奉る」とするのが自然でしょう。
今し御前に、ここだく据ゑ並(な)め奉りて、
まさに今、ご霊前に(この場合、みたまさんが祭祀の対象です)が「今し御前に」。冒頭部で「代代の祖先等の御前に」としていますので、揃えて「御前」をつかいます。もし「大前」をすでにつかっているなら、やはりここは「大前」とした方がよいでしょう。
また、「並め」は「並べ」としても変わりません。ただし、まちがいなく「並め」の方が古いかたちであるということはいえます。
つぎに、こういう理由でお祭りをお仕え申し上げます、というような内容を申したい。この人形感謝祭はもと供養祭という名前だったとはいえ、年一度行ってきました。そこで、毎年行ってきた例によって、ということも申すことにします。
これをまとめて、古語にしていきますと、毎年の例は「年毎(としごと)の例(ためし)」。(そのように)定めるために、は「定むるが故に」。合わせて、
年毎の例(ためし)と定むるが故に
ここの「と」は現代語にすると「~として」という意味で、祝詞では特によくつかわれる表現です。この人形感謝祭祝詞においても、もう出てきていますし、これ以降もよく出てきます。
つづいて、毎年の例と決めているために、のあとに、お祭りしましょうと、という意味の語句をつなげます。いまはオマツリといいますが、祝詞ではミマツリとすることがほとんどです。その御祭を「する」。神職が祝詞作文をするのですから、やはりお祭りはお仕えするものと意識して、そう表現しなければなりません。直前の語句と合わせて、
年毎の例と定むるが故に御祭仕へ奉ると
ここだけを見るとまるで例祭祝詞のようですが、この語句の前には、氏子・崇敬者が持参した人形をお並べ申し上げた旨を申しておりますので、参列者の間で誤解はないかと思います。ましてやみたまさんにはお見通しでしょう。
これでまだ気になるようでしたら「御祭」を「今日の御祭」としたり(ただし、すでに「今日」の生日の足日に、という表現をつかっていますので、そちらも変更するのが無難です)、いっそのことはっきり「人形感謝祭仕へ奉ると」と申してしまう手もあります。
ここまでで内容上から見るとつぎに移ってもよいくらいなのですが、分量が少し足りないので祭場についても申すことにします。
この場所を祭場とし、祓い清めて……という意味で単純に古語にするなら、
此の処を斎庭(ゆには)と祓へ清めて
となります。しかし、これでもまだ分量が足りません。なお、ここの「と」は前述の「~として」の「と」です。
まず祭場。祝詞ではふつう、「~な」祭場……と、前に「称辞」をつけ加えます。代表的なものは「厳(いつ)の」。立派な、おごそかな、という意味です。あまりつかわれているのを見たことはありませんが、他には「瑞(みづ)の」「珍(うづ)の」などが考えられます。
さらに、大麻(おほぬさ)をもってお祓いするので、これも申すこととして、代表的な語句からひとつとり「振る大麻の音もさやさやに」としましょうか。「さやさらに」はサラサラと。この部分を「清清(すがすが)しく」などとすることもできます。
此の処を厳(いつ)の斎庭(ゆには)と、振る大麻(おほぬさ)の音もさやさやに祓へ清めて
さらに、祭場の設営についても申すことにします。前述のように、祝詞ではあんまり具体的には申しません。お祓いについてはともかくとして、例えば清掃したこと、薦を敷いて、案を置いて、玉串に紙垂をつけて、などとは通常書くことはありません。そうしたことをまとめて申します。
ここでも同様に、いろいろと準備をした、という意味で古語にし、「種種(くさぐさ)に装ひ設けて」としてみます。この語句を置く場所は、前述の「祓へ清めて」のあとよりも、「厳の斎庭と」のあとの方が自然でしょう。「設けて」はモウケテと現代と同様に読むこともできますけれども(仮名づかいは「まうけて」)、ここではマケテと上代の音にならうことにします。
此の処を厳(いつ)の斎庭(ゆには)と種種(くさぐさ)に装ひ設(ま)けて、振る大麻(おほぬさ)の音もさやさやに祓へ清めて
これで過不足がないんじゃないかな、というくらいまできましたので、人形感謝祭祝詞のお祭りする部分がひとまず完成したということで、この部分をすべてあげてみます。
御氏子・崇敬者等(まめびとら)の遠近(をちこち)より持ち参(まゐ)来たる人形(ひとがた)をば、今し御前にここだく据ゑ並め奉りて、年毎の例と定むるが故に御祭(みまつり)仕へ奉ると、此の処を厳(いつ)の斎庭(ゆには)と種種(くさぐさ)に装ひ設(ま)けて、振る大麻(おほぬさ)の音もさやさやに祓へ清めて
あすは引き続き、お供えについての語句をつくります。